「必要なものは」
2006.08.17
必要以上に、焦りと緊張を味わった経験を前回のコラムでご紹介した。
それでは、あの日、俺の身に起こった様々な出来事を冷静に振り返れば、何が見えてくるだろうか? ひとつひとつの状況をもう少し正確に分析して行って見よう。
話を振り返ってみよう。話はいきなり満員の地下鉄から始まっている。
電車に乗って行きたい最終目的地はクラブコングからの最寄り駅である長岡天神駅である。登場人物の俺は、心斎橋から梅田まで地下鉄御堂筋線を利用し、そこから阪急電車で長岡天神駅に向かおうとしている。文中に明確に出ていないその他の諸条件はこうである。先ず俺は、大阪の阿波座で、健康運動指導士の講習会に参加した。その講習会終了後すぐ帰らず、心斎橋に買い物に出かけている。その際、タクシーを利用している。買い物を済ました後、地下鉄に乗ったところから話が始まっている。この時、とてつもない混雑の理由が分からない俺は、必要以上の焦りと緊張を経験するが、最後はちょっと恵まれるという話しである。
この日、俺にもう少し「何か」があれば、同じ状態でもあそこまで焦ることは無かったということになるだろうか? まずタクシーに乗ったとき、運転手から「今日は淀川の花火大会がある。」という情報を得ている。そのとき俺が、知識として淀川の花火大会はどこで行われ、何時ごろどこの辺りが大変な混雑になるのかを知っていれば、超満員の地下鉄に乗ることもなく、阪急の切符を買うために長蛇の列に並ぶ事もなく、ホームまでダッシュする必要も無かった筈だ。つまり、あの日、あのような体験をする羽目になったのは、淀川の花火大会に関する知識が無かったこと。大阪に地理について詳しくなかったこと。この2点が理由となっている。
しかし、それらの情報が欲しければ、運転手にでも、通り行く誰かに聞いても答えを得られる程度の情報である。この場合、もっと大きな問題は、知識の無さよりも、それらの情報の重要性に気付かなかった俺の洞察力の無さに問題があったというのが結論となる。
目の前に宝があっても、その宝に気付かなければ無いのと同じである。情報は使う側の力量が試される宝といえるのではないか。結論としては、あの日、俺は宝を宝として認識する洞察力に欠けていたといえる。
しかし、正確な洞察力があれば、ギュウギュウ詰めの電車には乗らなかっただろうが、窓越しのあの美しい花火も見ずに、帰っていたかもしれない・・・。