「知的好奇心」
2007.11.29
最近TVを見なくなった。
自分の作業効率の悪さが原因で、こなすべき仕事が溜まってしまい、ゆっくりTVを見ている時間がないということが最大の理由だが、実際に見てみたいと思う番組も少なくなってきている。
最近のTV番組が伝える情報は、あまりに軽薄短小に徹している。そうでなければTV番組という短く区切られた時間の中で、伝えたいポイントを視聴者に上手く伝えられないということなのだろう。しかし本当に、それほど視聴者の理解力は落ちているのだろうか?
物事は、TV番組のコメンテーターが簡単に伝えようとしているほど、シンプルに短く説明できることばかりではない。ひとつひとつを見れば、シンプルに考えられる事柄でも、世の中のほとんどの現象は、多くの要素が複雑に絡み合って成り立っているというのが真実である。
そうした現実を、先ず理解しないままに、軽薄短小な情報伝達にばかり触れていると、深く思考するということを忘れてしまう。
簡単に理解できる、上っ面だけの解釈を教えてもらい、自分では、考えない癖が付いてしまうのだ。なんでも、軽薄短小に理解した気になってしまうと、本当は分かっていないことでも、分かったような気になるから性質が悪い。
こうした悪循環にはまってしまうと、人々は自ら思考し、判断しようとはせず、最初から、TV解説者が誘導した先入観をもって情報を判断してしまう。こうして簡単に、世論が操作される可能性を持つことは、個人としても国家としても非常に危うい。
その上、考えないということは、新しい知識・アイディア・情報を生み出さなくなるということでもある。
有名な経営思想家P.F.ドラッカーは、著書『経営者の条件』の中で「考えることこそ知的労働者に固有の仕事である。」と言っている。
そして、こうした知的な作業をする者こそが、アメリカ、ヨーロッパ、日本が国際競争力を獲得・維持するための唯一の生産要素であるとも言い切っている。
何より、漠然とTVから流れてくる情報を受け取るだけでは、知的好奇心は、芽生えては来ない。
知的好奇心が無ければ、情報を自ら取得しようとも思わないということになる。つまりネットで検索する行動さえも行わないということになる。こうしたタイプの人間は、知識を積み重ね、そこから、判断して行動することすら、出来なくなる可能性を内在させている。
つまり、自分で判断が出来ないということになる。となると、残る道は他者への従順という道しか残らない。それでは、何かに従わされて生きる人生となってしまう。こう考えてみると、知的好奇心とは、生き方を決める要因になる程に重要なものと言える。
果たして、あなたやあなたの周りの人々は、知的好奇心をもって、自らの人生の歩みを進めていると言えるだろうか?