「変化と記憶」
2007.08.02
京都新聞に下鴨神社の「みたらし祭り」の様子が紹介されていた。
神社の中の浅い池をはだしで歩くことで無病息災を祈願するお祭りだ。20代前半まで、下鴨神社の近くに住んでいたので、子供のころから何度も足を運んだことのあるお祭りだ。池の上にたくさん供えられた灯明のぼんやりといた明りになんとなく心華やいだ記憶がある。最近は下鴨神社に立ち寄ることもなくなったが、他にも葵祭などで境内に屋台が出ることが楽しみな場所だった。
あの辺りも少し変わっただろうか?
変ったといえば、少し前の朝日新聞に携帯電話の利用についてこう書かれていた。
“ケータイはもう「電話」ではない?”
携帯電話のヘビーユーザーの4割が携帯をほとんど通話に使っていないということらしい。一人当たりの利用料金も減少する一方で、一日の通話回数は、「ほとんど利用しない」「3回未満」の両者を合わせると約8割が携帯を電話としては活用していないという格好だ。
「もはや「電話」サービスには頼れない、新しいビジネスモデルの開発が急務だ。」(NTTドコモ)と言わせるまでに変化している。
携帯電話の前身である自動車電話をいち早く自分の車につけた時は、とてもうれしかった記憶がある。しかし、あまりに誰も自動車電話をつけていなかったため、誰も連絡してこないのがもどかしかった。そのころは電話でメールをすることは誰も予想していなかっただろう。世の中は常に駆け足で変化して行く。
そして自動車電話を取り付けた「車」を乗り換えるサイクルも大きく変化している。
普通車と小型車を合わせた平均使用年数は06年3月時点で11,1年(自動車検査登録情報協会調べ、軽自動車除く)ということだ。使用年数が伸びるということは買い替えが鈍るということになる。バブル期に一気に縮んだ使用年数は、近年、人間の寿命なみに伸び続けている。
今をときめく産業である携帯電話の事業も自動車産業も、今や変化への対応速度が生命線となって来ている。
年々加速度を上げる時代の変化についていけるか?新聞紙面からの問いかけに自問自答する日々である。
変化を追いかけ、変化を作りだすことを羨望する俺の中にも、少年の頃、足をつけに行った「みたらし祭り」の思い出は変わらぬままに存在する。しかし、思い出が記憶の以上の重要性を持ったとき、進化への歩みが速度を落としてしまう。人は過去に生きていてはならない・・・。